アイドルを哲学してみた。(アイドルは同じ人間なのか否か)

こんにちは、初めまして。サコと言います。知ってる方はご無沙汰しております。

もうすぐ夏休みという大学生の方も多いのではないでしょうか。

正に私は今それでいて夏休み直前のレポート地獄に頭を悩ませております。

先日、私が入っているゼミで世の中で意見が二極化することについてというお題でレポートが出されました。しかも哲学科なので哲学に関連しながらの4000字以上。ということでどんなことでレポートを書こうと悩み続けた挙句、カレンダーを見れば締め切り前日......。完全に詰んだと思い、迷った挙句の果てに私は自分でずっと大学生になってやりたいと思ってたことを思い出したのです。

そうだ、アイドルを哲学しよう。

昨日、提出したはしたものの折角書いたし、折角アイドル垢を持っているわけだから公開してしまおうと思い、今こうしてこの記事を書いております。

前説明が長くなりましたが、早速本題に移っていこうと思います。

もしよろしければこのままお付き合いくださいませ。

◎アイドルというもの

アイドルにも色々な種類がありますよね。第一に大きく分けて男性と女性のアイドルに区別される。両者の例を挙げるなら前者はAKB48、後者はジャニーズといったところでしょうか。他にも様々なアイドルがいらっしゃいますが、各々にコンセプトがあったりしていかにして自分たちを売り出していくかの戦略があるのです。それは大いに私たちアイドルファンを楽しませてくれたり、衝撃を与えてくれます。

が、しかしアイドルというものにデメリットを挙げるとしたらそれは年齢という壁があることでしょうか。典型的な例を挙げると女性アイドルは大体がいずれ、卒業といった形で20代初盤〜中盤で脱退してしまう。これはなぜでしょうか。

 

卒業理由について、「2年前から決めていたんですけど、2年前は握手会の事件とかあってできず、AKBをやりながらやりたいことできるなと思って続けていた」と伝えた上で、「28歳になったので次のステップにいきたい、大人の女性になりたいなと思って卒業を決めました

引用元:小嶋陽菜、卒業理由を告白。http://news.mynavi.jp/news/2016/06/22/108/

 

こう語ったのはつい先日行われたAKB48総選挙内で卒業発表をしたメンバーでもある小嶋陽菜さんである。グループが発足した2005年から11年間、彼女はアイドルとして居続けました。彼女は一人の少女から一人の女性となるために一つの区切りをつけようとしているのです。ですがAKB48という媒体は彼女がいなくなっても在り続ける。人を変わり続けるものとして継続し続けます。28歳で制服を着るのもなかなか苦痛と思えば苦痛なのではないでしょうか。このようなところで彼女はアイドルとして生きることをやめようとしているのです。いわば、彼女は一度死ぬともいうべきでしょうか。

 ◎アイドルと私たちは同じ人間なのか?

ここまで述べてきて、果たしてアイドルと私たちは同じ人間と思っていいのかと疑問に思いました。もちろん私たちが好きなアイドルになれることもなければ、そのアイドルも私たち自身になることもありません。

そもそもアイドルという言葉を辿ると語源は”イドラ”であり、フランシスコ=ベーコンという哲学者が考えたものです。ベーコンは私たちの知識は全て経験から得られるものであると主張しました。そこから発生する私たちの先入観や偏見が正しい知識を得るのを妨害するというのです。つまりその先入観や偏見がイドラなのです。だから、私たちが正しいと思っているものは実はそうではないのかもしれない。

つまりは偶像崇拝ともしばしば言われますが、アイドルとファンの関係性を簡略化すると結局は私たちファンはアイドルの本質を掴むことはまずないのです。

私が考えるにアイドルというものは私たちに楽しさを与えてくれる、夢を与えてくれる存在であると思います。つまりアイドルは夢を売っている。確かに同じ人間ですが、やはり同じ枠組みにしてはならないところがあると私は考えます。アイドルを見るときそれは世界が一変したかのようにその人物だけに夢中になれます。いわば夢の中にいるような自分の思い通りの状況がそこにはあるのです。

 

みんなファンの人が求めている物を何で分からないかなっていう、もちろん近くに来てくれるっていう気持ちも凄く分かるし、それもあると思うの。でも基本的に自分たちが「これ以上いったら吐いちゃうんですけど」っていうくらい踊って、そのぐらい踊ってファンの人にはちょうど良いというか、満足度が満たされるっていう事だと思ってるんですよ僕は。

引用元:三宅健のラヂオ(2011年6月6日放送分一部抜粋)

こう話したのは6人組男性アイドルグループV6のメンバーの三宅健である。

 

◯V6三宅健を哲学する。

何を隠そう私はアイドルという中でもV6が一番好きです。

その6人の中でもこの三宅健という人物は非常にアイドルというものに対して真摯に向き合っている姿勢が伺えます。ですが、裏を返せばアイドルという三宅健人間としての三宅健を完全に分けているとも言える。彼はいい意味で彼を見せてくれません。むしろ私達が魅せてられているのはアイドルとしての三宅健なのです。

今回のテーマは彼から考える点があります。まずはファンとアイドルの関係性。彼は私達ファンが何をしたら喜ぶのかや何をすればファンがずっと好きでいてくれるのかということを分かり尽くしているのです。計算し尽くされた可愛さやかっこよさが彼には詰まっている。現代の言葉を使うと”あざとい”。彼は本当に”あざとい”のです。アイドルというものはその魅力を最大限に魅せる場としてコンサートというものがありますよね。そこで彼は十二分にそのあざといを発揮します。

『女はなぜとか、何のためにとかいった理由なしに愛されることを望むものだ。つまり、美しいからとか、善良であるとか、聡明であるとかいった理由によってではなく、彼女が彼女自身であるという理由によって愛されることを望むものだ。』

スイスの哲学者、アミエルはこう言っています。この言葉を知っているかのように、三宅健はファンを愛しています。前述のAKB48のようなコンセプト、会いに行けるアイドルとは裏腹にコンサートでは会えるが、簡単には会えないその絶妙とも言える距離を彼は巧みに操っているのです。それにファンは満足して充実感を感じている。ある意味で一定の距離を保っているように見えますが、彼自身は

「純粋にライブを楽しみたい」って人もいれば、「ライブに行くのが生きがいだ」って思ってくれている人もいたり、中には、闘病中でも応援してくれている人もいるだろうし。とにかくいろいろな人がいると思います。この20年間、たくさんのファンレターを頂いて、読んでいくうちに、僕自身いろいろ考えることがありました。僕のファンのみんなとの距離感って、ただのアイドルとファンの関係性じゃない・・・。そこをもっと超えたもののような気がしてきたんです。20年やってきて、最近、特にそう感じるようになりました。

引用元:V6 20th ANNIVERSARY SPECIAL BOOKより

と語っている。彼はこれを素直に話しているのでしょうか。

仮に本当の本心でこのことを述べているならば、彼ほどファンを考えている人物はいないのはないのではないでしょうか。

次に彼自身についてである。V6は昨年デビュー20周年という大きな節目を迎えました。この20年の中で彼らも彼ら自身の考えもグループの方向性も様々に変容したといっても過言ではありません。三宅健もまた17歳の少年から37歳の一人の男性として変化しました。ですが、他のメンバーから何冊もの雑誌の取材で「(三宅)健は、変わってない。」と言われている。37歳とは思えない可愛らしい仕草や中性的な雰囲気。それはデビュー当時からずっと保たれているものというのは確かでしょう。

前述のAKB48と比較してみるとやはりここが女性と男性のアイドルの決定的な違いなのではないでしょうか。80年代、爆発的な人気を誇ったアイドル、松田聖子アーティスト、松田聖子として活動を続けている。アイドルにはリミットがあるという言葉を払拭すると言わんばかりに三宅健は若さを保ち、それでいて変わらない自分を魅せてくれる。ここで私はやはり、当たり前のことだが自分に持ってない何かがあるということを確信したのです。アイドルというのはだからこそ惹かれるものなのかと。

そして彼はファンを大事にすると同時にメンバーのことを非常に大切に思っています。メンバーとの関係性が非常に彼がアイドルでいることの象徴的であることがたくさん詰まっていると私は大いに思います。特にグループのメンバーである森田剛との関係性が実に興味深い。もともとデビュー前から二人で表舞台に出ることが多かった彼ら。20年以上、近い存在であり続けた彼らはお互いのことをもはや、家族以上の仲間だと思っているに違いないでしょう。 

 

「こいつと14歳から一緒でさ、友達で長く付き合ってとかだったら23年会わないとかもあるじゃないですか。でも、ずっと一緒だから、こいつなんなんだろうって思う」「俺が死んだらこいつはどう思うんだろうって思う」

引用元:V6 Live Tour Oh!My!Goodness! inきたえーる MC一部抜粋

こう三宅健に対して森田剛は考えている。その他お互いのないところを尊敬しあっている分かり合っている彼ら。

◯剛健を哲学する

ファンたちは彼らを見て”剛健は一心同体”、”剛健は宇宙”などと評し、V6の魅力の一つとして成立しています。確かにその意見を認めたい気持ちもあるのですが!

哲学を学ぶ人間としてやはりここは考えるべき点なのではないかと思ったのです!

哲学の基本として自分は他人になれないし、他人は自分になれない。というものが根底にあります。つまりは剛健が一心同体ということはまずありえません。むしろ意味不明。どちらか一方が悲しくなってもそれを一方がその悲しみを共有することはできないし、同じことを考えていたとしてもそれは単なる偶然の産物に過ぎないのです。

ただ一つ言えることは、ラポールというものが三宅と森田の間にはこの20年以上の中で無意識に成立しているのではないのでしょうか。ラポールとは、オーストリアの精神科医フランツ・アントン・メスメルが用いた語です。相互を信頼し合い、安心して自由に振る舞ったり感情の交流が行える親和的で共感的な関係が成立しているというもの。彼らの間でこれが成立しているという仮説を立てたとしたら、前述の彼らのファンの声は比較的立証されるものではないでしょうか。

◎まとめ

ここまで論じてまず言いたいことは、彼ら彼女たちアイドルはやはり私たちと同じ人間ではあるが、違う枠組みにいるということ。しかし、芸能界という違う世界にいる手の届かない存在という意味ではありません。私たちは結局、彼らアイドル自身の本質を一生見ることはないのです。だからでこそアイドルは偶像とも言われる。

もしアイドルという職業じゃなければどこかで出会って彼ら自身の本当の生き方を見ていたのかもしれない。つまりアイドルと私たちは同じ人間という中の違う枠組みにいる別のものであると言えるのです。そしてそれは私たちにとってとても好都合なことだと私は捉えます。

先ほども用いたフランシスコ=ベーコンイデアを今度はファンとアイドルの関係と関連しながらもう一度考えてみましょう。本来のイドラと私たちと正しい知識の構造を、私たちファンの前にイドラ(先入観、偏見)という或るアイドル(以下A)の魅力 (可愛いetc.)などがあり、その向こうに正しい知識としてAの本質(アイドルではない本来の人間としてのA)が存在するという構造に置き換えます。この構造が正に今のファンとアイドルの関係なのではないでしょうか。

もしこのイドラがなかったとして、実はAという人間はメイクする前がとても可愛くなく、本当はもっと性格の悪い人間であったとします。イドラがないわけなので直結的にそのAの本質に触れることになり、ファンはどのような状態になるでしょうか。構造の秩序が乱れ、ファンは大きな損失を得ることでしょう。このように、ファンとアイドルというものは常に絶妙な距離を保っています。アイドルはファンに夢や楽しさを売り、ファンはそれに魅せられ満足感を得る。このバランスも全てはアイドルとファンが同じ人間の中でも違う枠組みにいるからなのです。アイドルとファンは違う人間なのです。つまりアイドルと私たちが分かり合える時がもし来るのならば、それはアイドルがアイドルという自分をやめ、一度死ぬ時なのではないでしょうか。

◎最後に

長々とここまでお読みいただきありがとうございました。

なかなかわかりにくいところもありましたが、しがない私立大学で哲学を始めた私なりにアイドルを初めて哲学してみました。自己満なのは重々承知です!

少しでも私のアイドルに対する気持ちが伝わればなあと思っている所存です。

では。